水子供養と水子地蔵
- 冥土へ行くときに渡る三途の川。
その川の河原が、賽の河原。
水子について、よく語られるのが、賽の河原の話である。
浄土へ行けなかった幼い子供、水子は、賽の河原で、鬼にいじめられる。
賽の河原の水子たちの親代わりとなり、水子を守り、救うのが、地蔵菩薩の働きの一つである。
親より子供が、先に亡くなることを逆縁という。
昔は、親より子供が、先に亡くなることは、親不孝なことであるとされた。
水子は、浄土へ行く途中にある三途の川の河原までしか行けない。
三途の川の河原の、賽の河原に留め置かれる。
水子は、娑婆で生活する親のため、賽の河原にある石を使って、塔を作る。
しかし、塔の完成間近に鬼が来て、積み上げた石を崩し手しまう。
鬼は、塔を完成させまいとして、完成する前に壊す。
水子たちは、河原の石を一つづつ積みあげる作業を続ける。
水子が塔を作ろうとしては鬼が壊す、という繰り返しの作業を延々と続ける。
水子が賽の河原で、親が恋しいと泣いているのを慰めるのは地蔵菩薩である。
賽の河原で、水子のために働く、地蔵菩薩は、一般的に水子地蔵と呼ばれる。
ところで亡くなった子供、水子の霊を供養するために地蔵菩薩におすがりすることは良いことである。
霊についての解明はなされていない。
万一、水子が、浄土へ行けず、迷い、さまよっているとしたら、救ってあげなくてはならない。
その場合、救い、守ってくれる働きをするのは、六道能化の地蔵菩薩である。
水子地蔵尊が適役である。
薬師如来は病気をなおす。
地蔵菩薩は六道能化、衆生救済の働きをする。
仏様は、働きに専門分野がある。
餅は餅屋である。
子を亡くした親としては、子供が生きていても、水子になっても、自分の子供に変わりはない。
親が子供を愛する心は、子供が生きていても、亡くなっても同じである。
水子の行く末、将来、水子の現在の状況、を心配するのは、親心である。
水子の霊に対して、心からの供養をすること、水子地蔵尊に心からお願いをすることは、良いことである。
お釈迦様は仏様であった。
お釈迦様が、入滅したことにより、仏様がこの世にいなくなった。
お釈迦様に代わって、仏様としてこの世に出現することになっている弥勒菩薩が出現するまでには、お釈迦様が入滅してから、五十六億七千万年後と言われる。
弥勒菩薩が出現し、お釈迦様の役割をするまで、地蔵菩薩が衆生を救う働きをする。
お釈迦様に代わり、地蔵菩薩は、衆生を救うために、八面六臂の働きをしなくてはならいことになる。
地蔵菩薩は、役目を果たそうとする決意の現れから、修行者としての心にたちかえり、人々を救う修行者として、唯一髪の毛が無い菩薩である。
地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間世界、天、の六道のどこにでも自在に現れ、人々を救う能力を持ち、苦しむ衆生を救う働きをするのが、地蔵菩薩である。
六道で、衆生を救済する働きをしている地蔵菩薩を表したのが六地蔵である。
このように考えると、水子地蔵尊の形が、子供が何人もすがりつき、それをあたたかく抱きかかえる様子は、水子が衆生の一員であることに鑑み、水子を救うことも衆生を救うことの一つの働きである。
水子地蔵尊の形は、地蔵菩薩に与えられた役割を表現したものである。
水子の霊
水子が、たたる、ことはない。
水子の霊も、大人の霊も、何等変わらない。
霊としては同じ霊であり区別する理由はない。
霊の存在については、解明されていない。
たとえば、死ぬ寸前の亡くなった方の「おもい」、「自分が死んだことがわからない」といったことが、「意識」として、肉体の消滅とは別に、この世に残ることがあるかもしれない。
水子供養は、供養であり、除霊とかお祓いではない。
霊が存在するとしたとしても、他人の霊ならともかく、自分の子供の霊を除霊することなどとんでもないことで、あり得ないことである。
水子の霊の側から考えても、自分の親に除霊やお祓いをされることは考えられないことである。
霊が存在するとしても、亡くなった方自体に本質がないので、霊も本質がないため、必ず消滅する。
あらゆるも生まれたものは、その始まりは、大日如来の因縁のみであり、子の因縁、親の因縁も、もとをただせば、その本質は、仏の因縁であり、水子の因縁は本質がないから、それ自体存在しないのである。
何か不幸なことが起きたとして、水子との因縁はないので、水子の霊自体がが原因になることはない。
水子も大人も、あらゆるものに、仏教上、実体はない。
空である。
唯一実体のあるもの、本不生、不生不滅の存在は、宇宙真理、大日如来だけである。
ところで、水子は、中絶、流産で生まれなかった子だけではなく、生まれたが、乳幼児期に死亡した子供を含むことばであった。
水子という言葉は、生後すぐに海に流された神様の「水蛭子」神の、水と子の文字をつなげてできた言葉という説がある。
水子供養をすることは良いことである 水子の霊も、大人の霊も、何等変わらない。
大人の亡くなった方をご供養することと、水子を供養することは、何等変わりはない。
供養は、当然のことであり、良いことである。
供養にあたっては、心の底から気持ちをささげる。
供給資養、自らの養った心からの供物をささげること。
中絶や流産をされた場合、母親、父親ともに、罪の意識にかられる。
中絶や流産の事実、罪の意識は、何年経っても忘れることができない。
水子のために何もせずに、いわば受け身の姿勢で、ただ罪の意識にかられ、苦しみ続けることより、水子のために積極的に供養をすることは良いことである。
とりかえしのつかないこと、過ぎ去ったことに悩むより、心の問題をどう解決するかが重要である。
つまり、水子のために何もしないでいるのではなく、水子のためになること、水子のために何かしてあげられることがないかを考えることが大切である。
このように考えると、水子供養は、水子のためでもあり、自らが善行を積むことにもなるのである。
罪の意識を持つだけで、水子のために何もしないでいるより、何ををすれば水子のためになるを考えてあげることが大切なのである。
水子と自分のために、水子供養をすることにより、気持ちの切り替えができ、罪の意識に加え、供養の心が育ってくるのである。
自らの心の中で、水子に対して、供養の気持ちを表すこと。 内心の供養を続けることが一番良い。
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